霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである。
ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。
信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。
わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。
ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る。
あなたがみ顔を隠されると、彼らはあわてふためく。 あなたが彼らの息を取り去られると、 彼らは死んでちりに帰る。
そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。
あなたがたは鼻から息の出入りする人に、 たよることをやめよ、 このような者はなんの価値があろうか。
その息が出ていけば彼は土に帰る。 その日には彼のもろもろの計画は滅びる。
キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。